2019年


ーーーー4/2−−−− 総代任期満了


 
区の総代の任期が終った。その仕事に追われた一年間だった。

 安曇野市には83の区がある。区というのは自治会組織であり、任意加入団体である。当該地域に住んでいる者なら誰でも入れるし、市も加入を勧めているが、近年加入率の低下が問題となっている。ちなみに我が家が所属している区は、およそ350世帯で構成されている。加入率は5割を少々切るくらいか。

 我が区は区長以下5名の総代で運営される。総代の任期は1年間だが、副区長は翌年度区長に持ち上がるので、2年間のお務めとなる。私は普通の総代だったから、1年間で任期が満了した。

 私が就いた任務は、議長と、環境部長と、日赤奉仕団長。議長は区の中だけの仕事だが、他の二つは市の会合や、上部団体の会合に出席しなければならないので、何かと気忙しかった。それやこれやで出動した回数は、回覧板を担当地域の常会長に届けるという簡単なものまで含めると、およそ140回に上った。

 総代は各常会ブロックから出されるが、年齢の順番などで選ばれるので、必ずしも適任者が任命されるわけではない。場合によっては、かなりの高齢者が出てくることもあるし、まだ会社勤めをしている世代の人が出てくることもある。そういう人が混じっていると、おのずと身の自由が利く立場の人に負担がのしかかってくる。

 このように住民が持ち回りで担当する役職は、どういうメンバーになるかで仕事のやり易さが大きく変わってくる。それは言わば運によるものだ。総代のメンバーのみならず、評議員(常会長)15名の顔ぶれについても、同じことが言える。穏やかで物分かりが良いメンバーならスムーズに事が運ぶが、世の中はそういう人ばかりではない。メンバーによっては、仕事が思うように進まなかったり、不快な体験をしたりする。組織はやはり人なのである。

 今年度の総代は適任者が揃っていた。いずれも優秀で、人柄も温厚な方々だった。自分の役割を常に正しく認識し、忙しい業務に追われる時も不平の一つも出なかった。また、饒舌に時間を無駄にすることも無く、事務的に淡々と仕事をこなした。そういう人たちに恵まれたのはラッキーだった。

 また評議員も、良いメンバーだった。いずれの会合も問題なく運んで、議長としてはちょっと気抜けするくらいだった。地域には、ことさら揉め事を起こしたり、感情的になって周囲を辟易させる御仁も少なくない。そういう人がおらず、逆に前向き、建設的、協力的な態度の方が多くて、助けられた。

 一年間の活動を通じて、新しい人との良い出会いがあった。それも大きな成果であった。この年齢になると、真面目なやり取りを交わす人間関係と言うのは、仕事方面は別として、なかなか得られるものでは無いと思う。この限られた地域の中とはいえ、心が通い、気持ちが温かくなるような出会いがいくつも持てたのは、幸せなことであった。

 これで役が終わり、自分の時間を自由に使える平穏な日々が戻ってくる。肩の荷が降りたような気がする。その一方で、区の運転席に座り、区を引っ張って行く立場から離れることに、一抹の寂しさを感じたりもする。それというのも、この一年間が様々な幸運に恵まれて、有意義に過ごせたことの証であろう。





ーーー4/9−−−  5年ぶりの再放送


 「あなた、あの方からお電話よ」と家内が言った。あの方とは、以前ラジオ番組の録音に来たNHKのディレクターである。電話に出ると、番組の再放送をしたいので、了解を得たいとの話だった。私はよろしくお願いしますと答えた。

 2014年の6月に放送した「ラジオ深夜便・明日への言葉」である。初回放送の評判が良かったとのことで、二ヵ月後に再放送があった。そして今回、およそ5年ぶりにまた登場することになった。ただし今回は、深夜便アーカイブス、シリーズ「私の生き方」というコーナーになり、放送時間も4時台から1時台に変わっていた。内容は全く同じで、タイトルは「木の不思議に魅せられて」。

 何故5年近く経ってから再放送されるのか、理由は分からない。深夜便アーカイブスというのは、過去に放送した様々なインタビューの中から放送するということなので、関係者の間で記憶に残っていたのかも知れないと想像した。

 過去二回の放送では、やはり初回の反響が大きかった。その日だけでも、何本もの電話があった。ホームページやブログのアクセス数も一時的に跳ね上がった。それやこれやで、多くの注文に繋がった。二回目は、さほどの反響は無かった。今回はどうだろうと予測した。5年も経っているから、以前は聴かなかった人が聴いてくれるかも知れない。時間帯が変わったので、以前とは違う層の人が聴いてくれる可能性もある。また、現在は「聴き逃しサービス」というものがあるので、本番を外しても聴いてくれる人がいるだろう。これは結構期待が持てそうだと思った。

 結果は予想外に低かった。電話は、「とても素晴らしいお話でした」との感想を述べられた一本だけだった。後は、知り合いからブログに寄せられたコメントが1件だけ。アクセス数も、普段よりは多いかなという程度だった。正直言って、期待はずれの結果だった。初回の反響が大きかっただけに、落差が大きく感じられた。

 それはともかく、聴き逃しサービスで番組を聴いてみた。5年も経っているので、内容はほとんど忘れている。そのため新鮮な印象を受けた。

 手前味噌と言われそうだが、とても良い放送だった。内容が豊富で、しかも中身が濃いと感じられた。台本無しで、よくもこれだけスルスルと喋ったものだと、我ながら感心した。そして、木の仕事に対する愛情とか情熱というようなものも感じられた。5年前の自分はこんなだったのか、と驚くくらいバイタリティーがあり、生き生きとしていた。今の私だったら、このようなパフォーマンスは出来ないのではないかと思われたくらいである。

 以前の放送があった時、知り合いの民法ラジオ局のアナウンサーが感想を寄せてくれ、良い内容だったと褒めてくれた。「大竹さんならではのお話だったと思います。実際に木の仕事をしている大竹さんだから、話が具体的で分かり易く、また臨場感がありました。評論家やライターだったら、あのような話にはならないでしょう。逆に、普通の木工職人だったら、あれほど幅広い話題は無いでしょう。大竹さんのインテリジェンスが光ってました」

 さて、今回の放送。冒頭をちょろっと聴いた家内の感想は、「今と比べると、声がずいぶん若いわね」だった。





ーーー4/16−−− 帽子を被って散髪?


 
床屋に行って、椅子に座ろうとしたとき、店員が「上着は着たままでよろしいですか?」と言った。フリースのジャケットを着ていたからである。私は「着たままで良いです。今日はちょっと寒いので」と返した。

 すると店員は続けて「あのー、お帽子は・・・」と言った。ベレー帽を被っていたからである。私は帽子を脱ぎ、「こちらは着たままでは無理ですね」と言いながら店員に渡した。

 そのシーンのおかしさには、我ながら苦笑した。

 これに匹敵するくらい間抜けなシーンを想像すれば、マスクをかけたまま歯医者の診察台に座るくらいのものか・・・





ーーー4/23−−− 高遠で花見


 天下一とも評される高遠城址公園の桜。信州に越して来てから、一度は見たいものだと思っていた。しかし、なかなかチャンスが無かった。シーズン中はたいそう混雑すると聞いていたので、土地勘が無い自分は、二の足を踏んでいたのである。

 友人が数年前に高遠郊外に移り住んだので、その願望は実現の運びとなった。一昨年に初めて、高遠城址公園で花見をした。家内を伴って高遠に入り、友人と合流して現場に向かった。桜はちょうど見頃で、天気も良く、花見を堪能した。さすがは全国的に知られた花見の名所だと、感慨は大きかった。

 この春も出掛けて行った。正午頃友人宅に入り、早速一杯やった。それからバスで城址公園に向かった。路線バスに乗車するなどということも、滅多に無いこの頃である。車窓を流れる山村の風景は、思いのほか新鮮で、しみじみと心に迫り、旅情のようなものを感じさせた。

 城址公園に入り、膨大な桜の花の下を歩き回った。いろいろ適地を探したが、結局一昨年と全く同じ場所にシートを広げて宴会を始めた。途上で買い求めた握り寿司をつまみにして、酒を飲んだ。

 周囲にもいくつかのグループがあったが、いずれも少人数で、酒を酌み交わしている人たちも静かだった。若い頃に、東京や千葉で経験した、狂乱騒ぎのような花見とは様相を異にしていた。日本人の習性は、酒離れ、馬鹿騒ぎ離れが進み、穏やかでマイルドな志向に変わりつつあるのだろうか。もっともこれは平日だったからであり、週末、休日だったら、違う雰囲気だったかも知れない。

 二人だけだから、一通り飲んで食べてしまうと、することが無くなった。宴会をたたみ、散策をすることにした。帰りのバスまで2時間ほどあった。城址公園を後にし、市街の広い範囲に足を伸ばして歩き回った。これがなかなか楽しかった。

 歴史のある城下町である。規模は小さいが、それなりの風情がある。山に囲まれた立地ならではの、起伏のある町並みに情緒を感じた。谷間の向こうに見える中央アルプスや南アルプスの景色も美しかった。わずか2時間足らずの散策であったが、高遠という町を丸ごと立体的に体感することが出来、大きなおまけを貰ったような気がした。

 友人宅へ戻るバスには、下校の中学生が数名乗っていた。市街から遠ざかるに連れて、一人二人と生徒が下車していった。街道には夕暮れが迫っていた。バスの後ろに遠ざかる子らを見ながら、こういう田舎の町でも生きる楽しさを見出して、大都会へ出たりせず、美しい自然環境の中で幸せに暮らすことができれば良いなぁと思ったりした。こういうのを旅の感傷と呼ぶのだろうか。




ーーー4/30−−− 20年ぶりの風邪


 
私は1998年を最後に、風邪をひいたことが無い。つまり、およそ20年間に渡り、風邪で医者にかかったり、寝込んだりしたことは無い。

 何故その1998年を覚えているかと言えば、長野オリンピックがあったからである。オリンピックボランティアに登録し、いよいよ出番だぞという矢先に体調を崩し、熱を出した。掛かりつけの医者に行って、「大事な業務があるので、なんとか薬で熱を下げて欲しい」と頼んだら、「わかりました、やってみましょう。ただし、インフルエンザだったら、話は別ですよ」と言われた。

 幸いインフルエンザではなかったので、苦しいながらも現場(白馬のアルペン競技場)に通った。ボランティア・スタッフの中に、若い女性の看護師がいた。正直に事情を話すと、「スポーツドリンクを大量に飲んで、暖かい格好で過ごして下さい。そうすれば、良くなると思いますよ」と言われた。それを実行したおかげか、数日のうちに体調は回復し、業務を遂行することが出来た。

 それ以来私は、風邪気味に感じることがあると、首タオルを巻き、スポーツドリンクを大量に飲むということを実践するようになった。その効果は、いつもはっきりと現れた。この20年間、風邪をひいたことが無かったという背景には、この予防方法が功を奏したということもあったと思う。

 ところで私は、若い頃は花粉症と無縁だった。ところが、ここ10年くらい前から、それらしき症状に見舞われるようになった。クシャミが出る、鼻水が出る、目がかゆくなる、といった症状から始まり、年を経るにつれて、咳、痰、咽の痛み、頭痛、悪寒など、風邪のような症状が出るようになった。

 実際に風邪かと疑うこともあった。ただ、風邪なら発熱を伴うような症状にもかかわらず、せいぜい37度ちょっとの微熱しか出なかった。そして、風邪のような症状は、数日で消えるのが常だった。咽が痛くなり、咳が出るようになっても、熱が出なければ花粉症であり、我慢していれば数日で収まるというのが、自分なりの知見であった。

 以上は、全て自分で判断した事である。医者に相談した事は一度も無い。花粉症の原因物質を調べたことも無い。何が原因かは分からないが、ほぼ一年を通じて、程度の差はあれ、花粉症らしきものに悩まされてきた。元々呼吸器系にアレルギー体質があるので、そういうことに敏感なのかも知れないと思った。花粉症は不快だが、病気じゃないし、風邪をひくよりはましだ、などとも考え、自分を納得させてきた。

 この春も、大まかな花粉症の症状のうちに過ごしてきた。それが、一週間ほど前から、例の風邪のような症状が出始めた。熱を測ったら微熱だったので、花粉症と決めていたら、だんだん症状が激しくなり、三日目に39度近い熱が出た。そこで医者に行ったら、「気管支の風邪でしょう」と言われた。薬を貰って帰ったが、なんだかガッカリして、寝込んでしまった。20年間の記録が、いともあっさりと崩れてしまったので、失望感は大きかった。

 数日経ったら、だいぶらくになった。しかしまだ咳は少々出る。これはいったい風邪の残りなのか、それとも花粉症によるものか、分からない。